2015/07/26

国が国立大学の有能なパトロンになるために


国が国立大学法人に組織の見直しを要請したことが、今、大学や知識人から大きな反発を買っています。私自身、大学関係者でも知識人でもないのですが、それでもさすがにこれは強引というか、ちょっとちょっと、と思ってしまうのですが、みなさんはどう思われますか?

以下、リセマムより。


日本学術会議、国立大の組織見直し要請に異議 
日本学術会議は723日、幹事会声明「これからの大学のあり方―特に教員養成・人文社会科学系のあり方―に関する議論に寄せて」を公表した。文部科学大臣が68日に各国立大学法人に要請した組織の見直しに対して疑問を呈している。(後略)


今回の国(文部科学大臣)の要請で一番議論を呼んでいるのは、「国立大学の教員養成系学部・大学院と人文社会科学系学部・大学院の廃止や社会的要請の高い分野への転換」を通知した点です。

これは背景を含めてざっくり意訳すると、国が出せる運営交付金には限度があるのだから、比較的役に立たない(?)教員養成系や人文社会科学系の学部・大学院を無くすなりして無駄をはぶき、代わりに社会からのニーズの高い分野に力を入れなさい、という内容になります。

なんだかなぁ……。18歳人口は今後さらに減っていくわけで、大学が変わっていかなくてはいけないことはもちろんわかります。でもだからといって、文系のかなりの部分を占める教員養成系・人文社会科学系を切り捨てるような要請には、どうしても賛成できません。

だいいち、文系的なものの考え方は、どの分野であれある程度必要です。それに社会的要請の高い分野は社会状況とともに変わっていくわけで、いま切り捨てようとしている分野が、今後、重要になっていく可能性だって十分ありえます。さらに、これら挙っている文系の分野が本当に社会からの要請が低いのかとか、国立大学で学べる学問を社会的要請の高低で決めていいのかとか、考え出すといろいろと疑問が湧いてきます。

とはいえ、まぁ小難しいところは置いておきましょう。そのうえで、なんでこう、なんだかなぁ、という気持ちがふつふつと湧いてくるのかを自分なりに考えました。で、なんとなくわかったのです。

少しふわっとした話になって恐縮なのですが、個人的に大学の魅力や個性とは、さまざまな学部学科やそこに所属する人たちが有機的に結びついてできる、ある種のシンフォニーだと感じています。そういう意味では、大学とは楽団のようなものなのです。

それで、この楽団の演奏を聞きにきたパトロンが、この楽器とあの楽器は音が地味だからいらないと言い出した。でも、シンフォニーってそういうものじゃないですよね。すべての音がかねあって、はじめて完成するものです。だから、パトロンは楽器の話をしているんだけど、楽団はそうとはとらない。この人はそもそも音楽を理解していなかったんだと知り、愕然とします。

わかりにくい例えで、スミマセン。でも、そういうことなんです。今回の国からの要請を目にして、国は大学をとても無機質な装置の集合体ように思っているのかな、という気がしました。でも実際は、人と人との複雑な絡み合いでできた、非常に有機的な集合体です。

大学は一つひとつ置かれている状況も、魅力も、個性も、強みも異なります。そんななかで十把一絡げにして、大学の本質に関わるような大鉈を雑に振り下ろすべきではありません。それよりも力を入れるべきことは、各大学が自らの手で、自らを理解し、すみやかに改革が行えるように環境を整えることではないかと思うのです(すでにテコ入れはかなりされてはいるものの)。まかすべきところはしっかりまかす。それができてこそ、有能なパトロンなのではないでしょうか。

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